法話図書館 【名取芳彦のちょっといい話】ブログ

平成14年から連載された名取芳彦(なとり・ほうげん)先生のちょっといい話 ブログ版です。携帯電話からも見られます。
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第90話 お盆が2回のわけ
 みみなさんから「どうしてお盆は、7月と8月の2回あるんですか」という質問的お題をいただきました。多くの大人は何となくしかわかっていないと思えるので、いい機会だからここで一回書いておきます。
 でも、これには3つのポイントがあるので、それを最初に頭にボヤーッといれておいてください。
 【1】インドでのお盆の由来。
 【2】日本の先祖の考え方。
 【3】季節感の調節。

【1】お釈迦さまのお弟子で、神通力第一といわれた目蓮さんが、その力を使って亡くなったお母さんのことを思ってみたら、お母さんがとても苦しんでいる様子(逆さづりの苦しみのことを昔のインドの言葉で、ウランバーナといいます。それが盂蘭盆(うらぼん)の語源)……そこで、お釈迦さまに相談すると、こんな答えが返ってきました。
“目連、お母さんを救う方法があるよ。
インドはこの通り暑い国だから、お坊さんたちは毎年7月1日から15日までは、涼しい建物の中で勉強をしているだろ(これを夏安居(げあんご)といいます)。その7月15日、勉強を終えて、再び布教の旅に出かけるお坊さんたちに、ご馳走するんだ。
そうすれば、その功徳で、お母さんだけでなく、君の先祖で苦しんでいる人はみんな楽になるんだ”
 ここでのキーワードは、7月15日に、先祖のことを思った目連さんが、ご馳走したということです。では次!

【2】日本では仏教が伝えられる前から、人が亡くなるとどうなるかを、こんなふうに考えていました。
 亡くなった人の魂は、まず家のそばの草葉の陰の宿る。
その後に、時間をかけて魂は山へ戻り、山の神となる。その山の神は年に二度、正月と中元(7月15日のこと)に、山からなつかしいわが家に3日間返ってくる(まあ、これ以上長くいられても迷惑かもね)。
そこで子孫はご先祖をもてなすために、ご馳走をふるまい、踊りを踊る(これが盆踊りだ)。
 ここでのキーワードは、7月15日に帰ってきた先祖にご馳走するということ!

 ここまでをこう計算します。【1】+【2】−(お坊さんにご馳走する)=7月15日に、帰ってきた先祖にご馳走などのお持てなしをすると、先祖が喜ぶ。では最後!

【3】だから、日本ではお盆は7月15日にやってました。
日本では明治の最初までは旧暦を使っていたので、農作業も一段落したこの暑い時期にやっていました。ところが、明治になって太陽暦が採用されてからからは、7月15日というのは、季節的にお盆らしくない(約一カ月違いますから)。
そこで、旧暦ではなく、15日にこだわって1カ月遅れで8月にお盆をやっているところが多いんです。
 私的には、もしあの世へ行ったら、やはりお盆には、子孫たちが私を迎える段取りができたところへ、二泊か三泊で帰ってきたいと思っています。
(※先程の計算で引いた分については、あまり、それほど、ほとんど気にしていません。これは念のために書き添えました。)

 さて、次回はお坊さん歴20年でやっと気づいた……後ろでお経を聞いている人の「このお経いつ終わるんだろう」の心の声に、どう対応したかをお話し申し上げます。
posted by houwa-natori | 13:09 | ちょっといい話 | comments(0) | -
第89話 20年の重さ
 今回は朝、塔婆を書いていてふと思ったことを書きます。

 明治以来120年間住職がいなかった密蔵院に夫婦で入って今年で20年になる。そして、57歳で母が亡くなって来年で20年になる。

 20年前、密蔵院には広間として8畳が2室だった。今は15畳が3室ある。法事以外なにもやっていなかった密蔵院は、現在、ご詠歌、写仏、話の寺子屋、読経の会をやっている。80件だった檀家が250件になった。その間子供も3人生まれた。いろいろなことがあった20年だが、自分が関わってきたことが多いので、一枚の布を家内や周囲の人たちと織り上げてきたというのが実感だ。

 しかし、20年かかって織り上げてきたその布を母は知らない。母が生きていれば77歳になる。“小さなお寺でやっていけるのかしら”という心配をしながら亡くなった。母は栃木のお寺の生まれだが、自分の父親が僧侶として納得できなかったらしく、自ら尼さんの道を選んだ。しかし、理想の世界を夢見て入った寺にも、どろどろした人間関係があり、嫌になって還俗して、当時童話作家でもあった父と結婚した。3人姉兄の末っ子の私をとても可愛がってくれた。
「早く寝ないと朝起きられないわよ」とか「勉強しておかないとテストでいい点をとれないわよ」とか、もと尼さんだけに100パーセント正しいことを言うのが得意で、加えて、靴の踵をつぶして履いたりすると「そんなことはおかしいわよ。誰にでも聞いてごらんなさい」と世間体をとても気にする母だった。

 私のこの20年は、100パーセント正しいことをしてきたわけでもないし、世間体が良くないこともしてきた。母が生きていたら、どれほど怒られ、呆れられ、涙をながさせたことだろうと思う。

 かつて友人が寺の掲示板用にいいですよ、と教えてくれた言葉にこんなのがある。

 “あなたがダラダラ生きている今日は、昨日亡くなった人が生きたかった一日”

 亡くなった人を土台にした経過時間は、生きている自分にとって「やることやったか?」という後ろを向いて確かめる自問の時間になる。一方で、生きている自分を土台にした経過時間は、前だけを見て、布を織り上げてきた時間でもある。

 私の場合、20年という時間を重さにたとえてみると、母のことを思った時は20kgの鉄であり、自分を中心にした時には20kgの綿くらいの違いがある。最初にことわっておいたように、ふと思ったことなのでこれ以上うまく書けません。ごめんなさい。

 さて、次回は、みみなさんからいただいたお題「お盆はどうして二回あるの?」にお答えしてまいります。そう言われりゃ、そうだよなあ、私自身、きれいに納得してないかも……。
posted by houwa-natori | 13:08 | ちょっといい話 | comments(0) | -
第88話 雑巾がけと、ハタキかけ
 群馬県の赤城山の麓に金剛寺というお寺がある。住職の志田洋遠さんは子供会を30年近くもやっている。5年前、この住職から面白い話を聞いた。

 夏なのに、冬休みの話で恐縮だが、冬休みの子供会は、まず本堂の掃除からはじまるそうだ。赤城おろしとよばれる冷たい風が吹く土地でもあり、まさに凍てつく寒さの中での仕事である。何人もの子が、それぞれ掃除道具を持ち、白い息を吐きながらせっせと掃除をするのだが、この道具選びが面白いらしい。
 小学校高学年の子はまずハタキを取るそうだ。なぜかというと、ハタキは、服の袖をのばせば手を露出せずにすむ(まるで、ピーターパンのキャプテンフックのカギ手状態である)。もう一方の手はポケットにいれておけば、寒さ対策は万全だ。けっきょく、小さな子がバケツの凍るような水をつかった雑巾がけになることが多いそうだ。
 志田さんは言う。“まずハタキを取っていた子が、自分からすすんで雑巾がけをするようになるまでに、3年から5年かかるんだよ”

 この話を聞いたとき、子供会というのは、そういう素晴らしい人間教育ができるところのかと感心したことを覚えている。それから5年……
 先日、お風呂に入っていて、ありゃりゃ!と気がついた。あの話は、子供の話ではないのだ。大人のことを言っているのだ。
 この夏、私は100円ショップで買いまくったウチワの裏に、可愛いホトケさまとちょっとしたジョークを書きまくり、配りまくっているのだが、これを配る時「お好きなのをどうぞ」と言ったことがあった。20人ほどの集まりだったのだが、エライことになったのだ。
“アタシが先に見つけたのよ!”
“でも、私が先に取ったのよ!”
“あなたはもう好きなの取ったんだから、他のは見なくてもいいじゃないの!”
なんて具合である。あまりの恐ろしい光景に、その次からは、年齢の多い方からどうぞ、と言うようにしたくらいである。

 3年から5年で、雑巾がけをする子がいるのに、30年たっても50年たってもハタキを持ちたがる大人がいるのだ。
 仏教には「自未得度、先度他(じみとくど、せんどた)」という言葉がある。自分よりも、まず他の人を悟りの岸に渡すという菩薩の心意気を言った言葉である。いい言葉だと思う。

 さて、次回は「20年の重さ」でいきます。友達がお寺の掲示板用にと教えてくれた言葉「あなたがダラダラ生きている今日は、昨日亡くなった人が生きたかった一日である」にかかわる話です。
posted by houwa-natori | 12:04 | ちょっといい話 | comments(0) | -
第87話 病院の暗さ
 Mさんを見舞って、病院の自動ドアから外に出て、私はふと思った。
 どんなに病院が近代的なデザインを取り入れた内装をほどこしても、食事を選べるようになっても、看護婦さんたちがハキハキしていても、病院、特に病室は独特の暗さを持っている。その原因の大部分をしめているのが、Mさんが言った“ここにいる病人は、自分の病気のこと、自分のことしか考えていない”ことに起因しているのではないだろうか……
 そういえば、Mさんの6人部屋の病室に入った時、Mさん以外のベッドはカーテンが閉じられていて、その隙間からチラチラとテレビの画面が映っていた。それはまるで心を閉じているかのようだった。

 偉そうなことを書いている私だが、入院経験のない私が入院生活をする羽目になった時、レストランで何を食べようか選んでいる、あのイキイキした目をしている自信は微塵もない。おそらく自分の病気のこと、今後のことなど、自分中心の思考を堂々巡りさせ、伏目がちな、ため息ばかりつく自己優先患者になるだろう。
 しかし、Mさんの話を聞いたおかげで、すくなくとも“おっ、いかん、いかん。俺は自分のことしか考えていない心の病気になりつつなるぞ”と気がつけるキッカケをもらえたと思う。
 実際に、知り合いの中には、入院中にナースステーションへ行って“すみませんが、タオルたたみでも、トイレ掃除でも、何でもいいから、私に手伝えることをやらせてください”と頼んだ人もいる。こういう患者さんが増えると病院はずっと明るくなるだろう。

 病気になると考え方が自己中心的になる。そして、自分しか見ていない(見ようとしない)表情が、その空間の雰囲気となって全体を覆いはじめる。なんだか、今の日本の姿のような気がしないでもありません。
 Mさんのお見舞いで、もう一つ印象に残ったのは「芳彦さん。私はね、ここに入院している間、自分の病気のことしか考えない人たちの目を、たくさん観察しようと思ってるんですよ」と話す茶目っ気のある目でした。

 明るく書こうと思ったのに、できなくてスミマセンでした。
posted by houwa-natori | 12:02 | ちょっといい話 | comments(0) | -
第86話 イキイキした目
 入院しているアナウンサーのMさんを見舞った。今年80歳である(第8、15、16、65、66話に登場してくれている方です)。軽い黄疸が出たので検査したら、即入院になってしまったらしい。

 入院の知らせを受けて3週間後、アポなしで見舞った時、Mさんは6人部屋の窓際のベッドで枕にカバーをつけているところだった。声のでかい坊さんとアナウンサーなので、他の患者さんに迷惑だろうと、面会用の談話室へ移動して話をした。
「なんだ、元気そうじゃないですか。」
「入院してるのに、元気もなにもないんですけどね。自覚症状がないもんだから。」
「で、どうです?経験したことない入院生活は。」
「いや、もう最初の3、4日は嫌になっちゃいましたよ。」
「どうして?」
「だって、考えてもごらんなさい。ここにいるのは、私の大嫌いな、医者と年寄りしかいないんですよ。」
「そりゃ、そうかも。」
 Mさんは50年のニッポン放送在職時代も、健康診断は受けたことがない程医者嫌いだ。
「おまけにね、聞いてくださいな。その年寄りがね、自分の病気の事、自分のことしか考えてない目をしてるんですよ。」
 私は10年前に父が入院していた時のことを思い出した。兄や姉と交代で付き添いをしていた時期があったのだが、私が少し遅れて行くと「何してたんだ?お姉ちゃんはもう2時間も前に帰っちゃったのに。」とグチを漏らすことがしばしばあった。こちらにも子供のお風呂や仕事の段取りがあって、遅れてしまうのだが、病人である父はそんなことに想いはめぐらないようだった。
 そんな病人の心の様子を、自分の病気のこと、自分のことしか考えない目をしていると観察したのは、Mさんらしいと思った。

 Mさんは私たちが元気のない時こんなことを言う。
「人のイキイキした目を見たければ、デパートの大食堂へ行くんです。あそこに料理のサンプルケースがあるでしょ。その裏へまわって、何を食べようかと選んでいる人の目を見てごらんなさい。世の中でこんなイキイキした目をした人にはお目にかかれませんよ。私たちはいつだってあの時の目をしてなきゃ駄目なんです。」

 おっと紙面が尽きた。この続きは次回「病院の暗さ」で。病院が持っているあの暗さの原因の一端について、明るく(?)考えてみます。
posted by houwa-natori | 12:01 | ちょっといい話 | comments(0) | -
第85話 一蓮托生
 阿弥陀さまの世界のことを極楽浄土といいます。ここはとってもいい所(酒も旨いし、ねえちゃんもきれいかどうかは知らない)なので、なかなか思うようにならないこの世じゃ修行もできないから、来世では極楽世界へ行きたいと願うのが浄土思想です。

 さて、その極楽にはたくさんの蓮がある。極楽浄土に行った人はその中の、どこかの蓮の花の上に生まれて、阿弥陀さまの慈悲のもとに、素晴らしい環境の中で思う存分修行することができる。
 人の情けの中で生きている私たちであれば、あの世へ行ってもそばにいたいと思う人がいても当然です。そこで、あの世へ行っても同じ一つの蓮の上に生まれようね……という思いが“一蓮托生”という言葉になりました(相手に“嫌です!”なんて言われないようにしたいものですな……)。ここから、良きにつけ悪しきにつけものごとに協同してあたり運命を共にする、という日本語の用法に転化していきました。

 さて、仏教ではどうして蓮が大切に扱われているのか、ここで勉強しておいてください。理由は主に3つ。

* その1!まず、水の中に生えているのに、水に濡れないんです。葉っぱの上の水なんかコロコロ転がってしまいます。毅然とした心でしっかり生きていくことを勧めてくれてる。
* その2!泥水の中で育っているのに、花は泥色に染まることはありません。自分の悪いところを周囲のせいにしちゃダメだよと教えてくれてる。
* その3!ツボミのうちから、花の中に実があるんです。だれでも、仏さまという実を、もともと持っているんだよと励ましてくれてる。

 だから、仏さまはだいだい蓮の上に載っているんです。この蓮が象徴するものをしっかりわかっていれば、私たちだって、蓮をイメージしただけで心がきよらかになっていきます。

 さて、次回は久しぶりに病院にお見舞いに行って思ったことをつづってみます。あなたが入院した時、どんな患者さんでいるつもりですか?




【オマケ】いつもご愛読下さいまして、ありがとうございます。
「第84話 なんか変だよなあ」の、ナゾナゾの謎は解けましたか?「なんか変だよなぁ・・・」のまま1週間を過ごしてしまった方に朗報です。
名取先生より、貴重な(?)アドバイス付きの回答が届きました!
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 このナゾナゾは次のように答えるのが正解とされています。
 3人の学生が結局2,700円払ったことは正しい。しかしこの2,700円は、旅館の女将がもらった2,500円と仲居がネコババした200円の合計です。したがって、2,700円に200円はすでに含まれており、本来足さなければならないのは、学生の手元に返ってきた300円なのです。……と。

※注意!
 この問題は、お酒の席で話題が途切れた時に、間に合わせのつもりで「ねえねえ、このあいだ不思議なナゾナゾを聞いたんだけどさ……」なんてやってはダメです。全員が黙って考え始めてしまい、お酒の席がヒドイ有り様になります。
 私はかつて、これで2度失敗したことがあるから言うのです。
posted by houwa-natori | 17:21 | ちょっといい話 | comments(0) | -
第84話 なんか変だよなあ
 中学3年の受験勉強でよく深夜放送を聞いていた。学生でデビューしたてのユーミン(荒井由美)がゲストにでて、30分マイクを任されて、生で初々しくベルベット・イースターなんかを歌ってくれた(新橋のヤクルトホールで観客が四分の一しか埋まらなかった最初のコンサートをやる2カ月ほど前のことである)。
時間を5分ちかく持て余してしまった彼女は「おととい聞いた不可解な話なんですけど」と前置きして、こんなナゾナゾを出題した。

 3人の学生が旅館に泊まった。翌日3人は一人1000円の宿代を支払った。しかし宿屋の女将は、学生だからまけてやろうと、仲居に500円を学生に返すように言った。しかし、500円では3人では分けられないだろうと、200円ネコババして300円を学生に返した。ここからがこの話の不可解なところである。

 さて、300円返された3人の学生は、一人100円ずつもどってきたわけだから、結局一人900円支払ったことになる。3人で2700円だ。これに仲居がネコババした200円を足すと……あれ?2900円!あとの100円はどこへ行ってしまったのでしょう?

 その時は、ユーミンも答えを知らなかった。「皆さんも考えてください」と言ってスタジオを出てしまった。以来私は3カ月もこの問題に悩まされた。このナゾナゾは「この理論はここがおかしいではないか」という答え方をしなくてはならないので、文系の思考回路しか持ち合わせていない私には容易でなかった。「なんか変だよなあ」というのが精一杯だ。

 考えてみると、30年たった今でもこの「なんか変だよなあ」的会話を耳にすることがある。第11話で書いた「あなたには関係ないでしょ」とか「私の勝手じゃいないか」とか「他人に迷惑かけてないでしょ」なんていう言葉がそうだ。
そういう時には「うまく言えないけど、あなたの理論は何か変だよ」と相手に伝えるべきだと思う。なんか変だと思っていると、ちゃんとした答えが眼前に現れることもある。

 次回は、都鳥さんからいただいたお題「一蓮托生」でいきます。国語では行動や運命をともにする意味で使われる言葉ですが、もともとの仏教語の意味と、蓮の花が象徴するものをお伝えしてまいります。

 ※このナゾナゾの答えは、次週第85話の最後で紹介します。お楽しみに!!
posted by houwa-natori | 17:10 | ちょっといい話 | comments(0) | -
第83話 超ラッキー!
 高1の娘に何かの拍子に「これってスゲクない?」と若者言葉っぽく言ったら、高3と大2の伜が「お父さんのは、ただの茨城弁だよ」と言われて落ち込んだ……。私にはどこが違うのかわからないのだ。

 さて、その子供たちが小学生の時のことだ。友人が遊びに来て子供たちにお小遣いをくれたことがあった。2,000円を3人では分けられないので、私が100円足して、700円づつ分配した(200円を私がいただいて、600円づつ分けるなんてことはしない)。
 そして、夕飯の席……
娘「今日は超ラッキーだったよね。700円ももらっちゃって」
父「ちょっと待てよ。お父さんがあのおじさんの家に行った時にも、あの家の子供たちにお小遣いをあげたんだ。だから、ラッキーじゃなくて、“おとうさんのおかげさま”って言うんだよ」
母「そういうのは“おたがいさま”って言うんでしょ」
 私は、家内の思わぬツッコミにしどろもどろしながら「でもな、お前たちもお墓のゴミ箱掃除を手伝ったりするから、本尊さまのご利益かもしれないな」と言った。

 英語のラッキーという言葉は、キリスト教が土台になっているはずだから、“神の配慮”とか“神のおかげ”という裏打ちがあるはずである。ところが、現在日本語としてつかわれているラッキーは、そんな裏側はない。何の苦労をすることもなく得られた果報を単に喜ぶ言葉だ。同じような意味で使われる“濡れ手に粟”ならば、粟を手につけるために手を濡らす作業がある。“棚からぼたもち”なら誰かがぼたもちを作り、棚の上に置いたという工程が無条件でふくまれている。ところがラッキーという日本語には、そんな裏側がなんにもない薄っぺらな表現に思えてならない。

 ラッキーは、おかげさま、おたがいさま、ご利益など、色々な厚みのある言葉で表現できるはずだ。そういう言葉を使えないのならともかく(知っていても使わない言葉もあるものです)、なるべくならそういう言葉を使っていきたいと思う。
 さて次回は、お金の分け方つながりで、30年まえにユーミンから出題されたナゾナゾをご紹介しながら、屁理屈への精一杯の対抗手段「なんか変だよなあ」でいきます。理屈を好んで言う人、読んでみて!
posted by houwa-natori | 17:08 | ちょっといい話 | comments(0) | -
第82話 霊のしわざ(霊感商法の手口)
 「私の友達がへんな宗教に入ってしまって……」と相談を受けることが年に何度もある。この場合の相談というのは、入信した本人を普通の世界に連れ戻したいというよりも、その友達のことをどう理解したらよいのかというものだ。
 そこで、霊感商法と呼ばれる詐欺まがいの手法の共通点をご紹介しておこうと思う。キーワードは“自分のご都合”だ。

 私たちは何か自分のご都合通りにならないことがおきると、そのツジツマ合わせがしたくなる。「どうしてこんなに太ってしまったのだろう……食べすぎで、運動不足のせいだ」「どうしてガンになったのだろう……環境ホルモンの影響である」などなど。このあたりで止まっていればいいのだが、それが“他でもない自分の身に、どうして”となった時がクセモノだ。
 「他の人はやせているのに、どうして自分は太ってしまうのだろう」
 「どうして私がガンにならなればいけないのか」
 わからないことを、わからない!としておく勇気と、それならば今何をすべきか、という発想と行動力が必要なのに、自我が絡んでくると尚更ツジツマを合わせたくなるのだ。 そこに登場するのが霊である。霊感商法では“あなたが太っているのは水子の祟りです”“ガンになったのは先祖の供養が足りないからです”となる。―――これでツジツマが合っちゃうのだ。
 しかし、冷静(仏教では禅定といいます)に考えていただきたい。霊感商法ではその導入として“ご都合通りにならないことだけ”を霊のしわざで説明するのだ。普通の起こっていることを霊のせいにはしない。朝食にパンを食べることを霊のせいにする人がいるだろうか。
“私はご飯が食べたかったのに……”という人にとっては、ご都合通りではないから、霊感商法で言えば“それはあなたの守護霊の力が弱っているから、パンになってしまったのです”となる。

 自分のご都合の裏返しとして“霊”をもちだしてはいないだろうか……そう思える心の強さを日頃から養っていたいものです。
 さて次回は、ご都合つながりで、ご都合通りになった時に言う言葉“チョー、ラッキー!”でいきます。若者の振りして薄っぺらな言葉を使いたくなる人(オレのこと?)、読んでみて!
posted by houwa-natori | 17:07 | ちょっといい話 | comments(0) | -
第81話 南京玉簾的仏教
 今回お題をいただいた都鳥さんは、ご詠歌を勉強している方です。
歌をうたいながら仏教の勉強ができるというスグレモノのご詠歌の中には、数字のつく仏教語がたくさん出てきます(二利(にり)、四恩(しおん)、六波羅蜜(ろくはらみつ)、八正道(はっしょうどう)などなど)。
そこで都鳥さんは思いました。
“この数字って何か意味があるんだろうか”と。

 さて、興味があって、デパートの手品用品売り場で南京玉簾を買ったのは、もう30年近く前のこと。玉簾を手渡す時に店員さんは大学生だった私に言った。
“米びつの米をこれでかき回すんだよ。そうするとヌカの油でよく滑るようになるからね”と。
おかげで、わが家のご飯は数週間にわたって、崩れた形のお米を食べるはめになったことがある。
 丸くしごかれた竹をたこ糸でつなげた束の南京玉簾は、演じ手の軽妙な歌とヘンテコリンなダンスに合わせて、二本の国旗や釣り竿に変化する。そして、変化した形を
♪お目にとまれば、元へとかえす♪
と歌いながら元の太めの竹ヒゴの束にもどす。

 本格的なお坊さんになって、久しぶりにこの玉簾を練習して気がついた。
“これって、仏教的だな……”
形は変化するのだが、それは収めていくとちゃんと元にもどるのである。
 たとえば煩悩の数といわれる108という数がある。これは、迷いの根源とされる三毒(むさぼり、いかり、おろかさ)を展開した数だろう。108は3でちゃんと割れる。この三毒も実は“無明(むみょう)”を三つに展開したものだ。
“智恵”と“慈悲”に変化したものは、元へ戻すと「仏の徳」という一つに収まる。父母を一つに戻すと親になるのと同じだ。

 都鳥さんがふと思った仏教語に数字が多いわけは、このように、元があって、それをより具体的な教えに変化させていった先人たちの努力の賜物だ。
布施(無条件で何かをさせてもらうこと)や精進(がんばる!)などの仏教の具体的な教えも、心安らかになるという大目標達成のための具体的な方法である。

 今回は仏教理解のための周縁についての話になってしまいました。でも、初めて聞いた“ナンキンタマスダレ(片仮名で書くとなおさら変だけど)”の響きの呪縛から逃れられないんです。ごめんなさい。

  さて、次回は呪縛つながりで“霊のしわざ”でいきます。
霊感商法の共通した矛盾した理論をご紹介します。だまされる前にご一読を!
posted by houwa-natori | 17:06 | ちょっといい話 | comments(0) | -